雑事閑談

Base

 我々人間は、無意識下で安定なものを基準とする。窓枠、地面、地平線。何かしら常に安定してそこにある基準(Base)を頼って生きている。おそらく、どんな動物もそうであろう。

 その安定が崩れた時、我々の五感は基準を失い動揺する。船酔いや車酔いは床面の揺れを予測できずに、視覚と平衡感覚の感覚統合が上手くいかないことが原因で生じる。つまり、自分の中に確固とした基準座標系を作れないことが原因である。雪山で猛吹雪に遭遇した時、視界がどこも真っ白になり、地平線を見失い、平衡感覚を失う。五感が一致するような絶対的な基準を作成しようとして、上手くいかないと気分が悪くなるのである。

 神経系は、いろいろな機能を持つが、共有できるものは共有利用することによって、効率よく情報を処理しているのが基本だ。これまで、運動の学習機能として重要な役割を果たすと考えられてきた小脳が、その計算処理能力を利用して高次認知機能にも関与しているということが続々とわかってきた。これは、共有利用の好例と言えよう。

 とすれば、脳は身体の定位のためだけではなく、精神的にも安定を欲しているという仮説は、全く根も葉もない仮説とはいえまい。心の拠り所となるBaseを持っている人は精神的に強く、大きな外乱にも落ち着いていられる。ホッとできる家庭、信頼できる友人、あるいは自分自身の揺らがない信念。宗教や信仰は、そのBaseとなる有力な候補である。つまり、後天的に学習されたものがBaseとなり得るのである。とすれば、教育もこのBase作りに関与できるはず、いや、積極的に関与すべきはずなのに、日本の教育は、宗教や信仰に対して、非常に臆病であり、公教育ではまともな教育はしない。ここに宗教紛いのペテン師が付け入る隙が生まれる。また、倫理学や哲学もこのBaseを作成する重要な学問であるが、これらの学問を噛み砕いて、小さい子供たちに提供することはしない。日本の教育は子どもたちをどんな方向に導こうとしているのか?知識偏重が、逆に多くの勉強嫌いを生んでいることを学ばなければいけないはずなのに。

 という私も教育者の端くれ。日本の将来を希望に満ちたものにしてくれる優秀な学生たちを相手にしている。少なくとも、彼らがしっかりしたBaseを持てるように、私のBaseも耐震補強しなければ…

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